孫娘と対面、の巻。


8月5日5時半、

「夕希ちゃんが産まれそうなので行ってきます」

二度寝についたばかりのオレの耳元で、女房が囁く。

この台詞。

遠い昔にも聞いたような気がした。

そうだ、そうだった。

あの時と同じ台詞であった。


あれは三十数年前の真冬。

オレたち家族は長女を出産するため、

杉並に在る女房の実家で世話になっていた。

真夜中のことだった、

「あなた、ちょっと行って産んできます」

出産直前に、彼女がオレにかけた言葉であった。

彼女は義父母に病院へ送ってもらう直前迄、

オレと幼い長男を気遣っていた。

気丈な女だと思った。


今、その時に生まれた長女が孫娘を出産する。

寝ていては拙いだろう。

寝室を出て自分の部屋で、出産の報を待つ事にしたのだが、

オレも病院へ行くべきではないか。

俄に義務感のようなものが湧いてきた。

便利な時代だ。

「どう?」

ショートメールで彼女に問うと、

「もう直ぐ、みたいだよ」

返信がきた。

「オレも行くから」。


夏の着替えは早い。

猫のように顔を洗い、60秒以内で身支度を整え出発。

女房と娘のいる病院へと向かう。

道中、またもショートメールで病院の名前やら場所の

詳細を問うていたら、返信のあとに電話がかかってきた。

「時間外だから、インターフォンを押して『鈴木の父親です』と言ってください。開けてくれますから……」

「えっ!、鈴木って言うの!。やだよ。スズキなんていうのは」

更に続ける。

「自分の娘に会いに行くのに、なんで、そんな名前を言わなきゃいけないんだよ」

餓鬼でも言わないようなことを言って愚図る、オレ。

そうなのだ。

嫁いでから七年にもなろうというのに、

未だに相手の名前を受入れられないのだ。

「馬鹿な事を言ってないで、さっさと来なさいっ!」

怒られた…。


病院に到着。

インターフォンを押す。

「おはようございます。

先ほどからお世話になっています、娘の父です」

「鈴木さんですか?」

「えっ!、スズキ?。よく知らないんですが、

そんな名前だったのかもしれません…」

してやったり、扉が開いた。


2階の待合いに行くと、女房が笑顔で待っていた。

ふたりで、遠い昔日の、あの日のことを話していたら、

看護士さんがやってきた。

「そろそろですから、お母さんはどうぞ」

「お父さんも行きます」

そう言って、オレも立ち上がり付いて行こうとすると、

「お父さんは駄目です」だって…。

──何だ馬鹿やろう。

とは言わない。

言うと娘の肩身が狭くなるので我慢した。


ひとりぽつねんと待合いで、待つ。

先ほどまで女房と話していたことを想う。

想うが思考は娘よりも女房の方へと流れた。

あいつとは所帯を持つ前からも数えると、40年も一緒にいる。

花も嵐も踏み越えて、苦楽を共にしてきた。

灯台守の歌だ。

オレたち夫婦も今日から、おじいちゃん、おばあちゃんとなる。

初めて会った時、彼女はセーラー服を着ていた…。

オレは柄にもなく、

──幸せにする!。

なんて言って口説いたけど、約束は守れているのか…。


7時25分、

女房が目を真っ赤に腫らして戻ってきた。

無事に産まれたという。

「よかったね…」

女房の肩を抱いていたら、婿どのも到着。

「おめでとう」

声を掛けたら、彼も感激からか大粒の涙を流していた。

そんな処へ、看護士さんが孫娘を連れてきてくれた。

先ずは家内に渡してから、婿どのへ。

オレにも抱かせてくれようとしたが、

落としたら怒られそうだからヤメておいた。


女房を交えて、婿どのと談笑。

オレはこう見えて人見知りがキツいから、

今まで彼と話をしたことは殆どない。

そこで、生い立ちやら何やらを話していたら、

またも看護士さんが登場。

「あとで、ご主人とお母さんは分娩室へ入れます」、だって。

オレのことを忘れてないか。

「私は?」

「駄目です」。

忘れてなかった。にべもなく断わられた。


このアパルトヘイト並の差別はなんだ!。

グレてやる!。

不当な扱いに反発して、捨て鉢になっていると、

別の年配の看護士さんが現れ、

「お父さんから、どーぞ」だって。

「えっ!、いいんですか」

急に機嫌が直り揉み手をしながら、ペコリと頭を下げる。


娘のいる分娩室へ通された。

ベッドでは娘が感激の涙を流していた。

そしてオレの顔をみるなり、手を握ってきた。

この不意の出来事に、娘が愛しくて堪らなくなった

つい涙をもらい声が出なくなってしまう、オレ。

数分が経ち、漸く、声にならない声を絞り出した。

「ご苦労さま…」。


先ほどの看護士さんが孫娘を連れてきて、

「はーい、おじいちゃんですよ」

そう言って、オレの腕に抱かせてくれた。

初めて世間様から、おじいちゃん、と呼ばれた。


小さな生命に触れた。

とても尊いものに感じた。

これが孫娘か、と思った。

目は、二重瞼だった。

小さな指だが、10本揃っていた。

この娘も家族の一員となるのか、と思った。

この娘のセーラー服姿を見届けるは難しい、と思った。

この娘が長生きすれば22世紀だ、と思った。

変な男に騙されなければ、と思った。

昨年の秋に死ななくてよかった、と思った。

ペンキ屋とスミレから、

おじいちゃんと呼ばれるのでないかと、怯えた。

そして、こうも思った。

今日の事は、昔日にオレが女房を口説いた時から始まったのだ。

この娘にはオレと女房の血が流れている。

なんと言うか子孫を残すという、

大きな使命を女房とやり遂げた、と。


そんな思いを巡らせていたとき、看護士さんが名前を訊きにきた。

虹と字おくりを書いて、虹々、といいます。娘が答えた。


名前表が出来た。

名前、虹々ちゃん、

誕生、8月5日、

体重、3.250g、

身長、50cm。


もう限界であった。

これ以上は無理であった。

待合いで女房と婿と入れ替り、一件落着。

退室した。

ふたりに食事に誘われたが断わった。

ひとりになりたかった。

この感激にもう少し浸りたいと思った。


ふたりと別れてから、

昔の歌謡曲を口づさみながら

小雪、吉右衛門、虎徹の待つ家路に就いた。


お仕舞い。


弐阡壱拾弐年捌月伍日、

吉右衛門。



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