吉右衛門へら鮒釣り2011

  ◎番外篇
01月18日(金)

2013年番外篇

昔、三島湖で撮った写真が出てきた、の巻。

寒中お見舞い申し上げます。吉右衛門です。
遅ればせながら、本年もどうぞよろしくお願いします。

外は未だ酷寒。
私は冬眠を余儀なくされている次第ですが、過日、面白い写真を見つけましたので、それの公開をしつつマウス(筆)を進めていきたいと思います。

昨秋のことであった。
古いアルバムを捲っていたら、黄ばんだアルバムの隙間から、私が釣りをしている大昔の写真がでてきた。
こんな写真が存在したのだ…。
とっくの昔に忘却の彼方へ追いやられていた写真であった。
それが出てきたことには驚いたが、更に驚いたのは、その写真が三島湖であったことだ。
これは、いつの頃に撮ったものだろう…?。
興味が涌いたので検証してみたら、直ぐに判った。
写真の縁の余白に〈81-jun〉と製造年月がプリントしてあった。ということは、この写真が製造されたのは、1981年6月だ。
そしてこの日は、浅草へら鮒会の例会であったから、開催日の第二水曜日を当て嵌めると、この日の特定が出来た。
この写真が撮られたのは、1981年6月10日だ。(昭和56年)
そして、これがその写真である。

釣行記写真
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ダムサイド、梅の木ロープ。

釣行記写真
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場所は不明だが、高島屋桟橋のやや上流付近と推定。

先ずは場所であるが、上の写真の所在はハッキリと覚えていて、現在の名称でいう、ダムサイドの「梅の木ロープ」だ。後述するが背後が大ワンドである。
問題は下の写真だ。上述のキャプションでは、高島屋桟橋のやや上流と記したが、だとするとポンプロープの下流辺りか…?。
背後の小屋には何となく見覚えがあるが、小屋の下から上流に曲がるカーブの所在がわからない。鳥小屋から取水塔までの間にこのようなカーブは存在したであろうか…?。いつもボケっとしているのでわかりはしない。
もしお分かりの方がいらっしゃいましたら、掲示板を再開したので書き込んでください。よろしくお願い致します。
私もともゑさんに行った時にでも窺ってみます。
更に考察を続ける。
上の写真についてであるが、竿掛けを舟の側面に固定している。そして水面に張ってあるロープも一本のようだ。しかし、下の写真では万力が船尾に見えて岩盤にはロープが垂れ下がっている。現在は岩盤から離れた位置にロープが張ってあるが、当時は舳先を岩盤に結んで釣りをしていたのか…?。
紹介が遅れてしまったが、ここに写っている人物は紛れもなく、三十二年前の私だ。
今では考えられない体型に、笑わずにはいられない。この体型を維持していれば、心蔵に負担をかけずにすんだものをと思う。
上半身に着ているのはパーカーは〈Kodak〉のロゴが入っていて当時勤務していた会社から頂戴したもので、バッグと竿ケースは佐々木(ササキと片仮名表記であったかもしれない)の最高級品であった。当時の私はぎりぎりかつかつの生活であったが、どうしてもこれが欲しくて鬼のように残業して買い求めたのだった。

私は当時、釣り会に所属していた。
会の名前は、「つつじ野べら会」。
会員数、十名ちょっとの小さな会であった。
埼玉県の狭山市にあって、今も存在している釣り会だ。
入会のきっかけは、私がその付近に居住していたからで、会名の由来は狭山市の市花である〈躑躅〉から取ったらしい。
入会当時は名前の通り野べらを求めて、印旛沼水系や佐原水郷を中心に出掛けていた。酷寒の一月の初釣り例会などでは、川面が氷結した名も無いの水路の氷を割ってから始めたものだ。
それが数年を経て会の方向性が大きく変わり、冬は釣り堀。春、秋は三名湖、円良田湖、宮沢湖、千代田湖の準山上湖。そして夏には西湖へも遠征するようになり、例会場所が雑誌に掲載されるような知名度の高い人気釣り場となった。するとそれを聞きつけてか会員数も大きく増えて数年後には四十名前後になっていたのではなかろうか。
会の幹部は浅草へら鮒会にも所属していて、この時もそれに便乗して連れて行ってもらったのだ。他にも精進湖、豊英湖を経験出来たのもそのお陰だ。
私も今では運転免許を取得し自家用車も所有出来るようになったが、当時は自家用車は疎か運転免許すら持っていなかった貧困の極地であったので、この会には本当にお世話になったと思う。

出発は前日であった。
メンバーは故越岡麦秋会長、故大沢勇水幹事長、故鹿野覚さん、私が会に誘った前職の先輩である須田康正さん、それに私を加えた五名だ。
大沢さんの運転するワンボックスカーに同乗。関越自動車道の川越ICから合流し練馬ICへと出た。当時は東京外環自動車などはなく、一般道を経由して首都高速5号池袋線の北池袋から環状線と7号小松川線を経て京葉自動車道の終点(当時)浜野ICまできた。ここからは京葉工場地帯を右手に見ながら南下して三島湖へと向かったのだが、この頃の私は、神田駿河台下に在った現像所で工員をしていた。当日は徹夜の強行日程であったが連れていってもらっている手前、寝るわけにもいかず、その時間がやけに長く感じたのを覚えている。

薄暗いうちに三島湖に到着した。
釣り舟屋は今にして思えば、高島屋だったと思う。
ここで解散して越岡会長、須田さんと私が降りた。他の方は上流方面に向かったのか豊英湖に行かれたのかは覚えていない。
桟橋に降りて舟に荷を積載した。舟は宮沢湖で散々乗っていたので慣れていたがロープに結ぶのは初めての経験であった。(当時の宮沢湖はアンカー四点で固定)
さて出舟。
越岡会長は過去に大釣りを経験したことがある大ワンドを目指したが、私と須田さんは三島湖がよくわかっていない。それで越岡会長の背中を追うも、例会参加である会長の邪魔はしたくない、と適当に留めたのが、梅の木ロープであった。
竿は十四尺を使った。何故、竿の長さを覚えていたのか。
別に記憶力がよいわけではない。私がこの頃に所持していた竿は十二尺、十四尺、それに十六尺(十九尺、二二尺にも出来る)、十八尺の偶数竿だけだったからだ。
当時は天々などという釣り方はなく、棚は十尺程度で始めたのだと思う。開始して須田さんが直ぐに釣れだした。私も少しは釣れた記憶がある。そして群れが遠のいてからは堪えきれずにひたすらに寝た。六年前に再開してからは寝た事は一度もないが、当時は朝のゴールデンタイムが終了すると直ぐに寝たものだ。
午後。
「豚小屋下へ行ってみよう」
と、須田さんと移動したのが前出の下の写真であった。
そうなのだ。あの写真の場所が豚小屋下だと思ったのだ。
そこでも数匹が釣れた。
釣果は二十枚前後。目方は五キロ程度で、大満足であった。
須田さんは私の倍以上釣って、当日の野べら会の竿頭だった。

この写真を見つけてから数ヶ月。
これを題材に一筆啓上しよう。と眠っていた記憶を呼び醒まして一本の記事に纏めてみた。
私は今、縁があって千葉市内に流れてきているから、三島湖へ行くのも大して苦ではないが、当時の高速道路網で埼玉の狭山市から三島湖に遠征するのは大変であったと思う。
そして当日のメンバー五名のうち三名が鬼籍に入ってしまった。この写真を撮ってくれた須田さんも音信不通で消息不明だし、最年少であった私でさえも、今年還暦を迎える。
三十二年…。
この写真は、途轍もない長い時間をアルバムの中で眠っていたのだと思う。
その間に起こった出来事など十本の指ではとても数えきれない。
釣行記を書き始めた頃、「故越岡会長を偲んで」と数本の原稿を書いたが、今年はそれを復活して六月に、梅の木ロープで、
「ひとり例会」でも開催したいと思う。
その日が楽しみだ。

お仕舞い。

2013年01月14日(月) 。
吉右衛門。

お知らせです。
暫く閉鎖しておりました掲示板を復活させました。
不測の事態が起これば、またもや閉鎖に追い込まれるかもしれませんが、取り敢えず再開させてもらいます。
また、過去の掲示板に書き込んで頂いた内容の復活と移行は、残念ながら叶いませんでした。そちらの方はご容赦くださいませ。
今年も、「吉右衛門の釣行記」を、よろしくお願い致します。


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